ルカ9章

9:1 イエスは十二人を呼び集めて、すべての悪霊を制して病気を癒やす力と権威を、彼らにお授けになった。

9:2 そして、神の国を宣べ伝え、病人を治すために、こう言って彼らを遣わされた。

 イエス様は、十二弟子に、すべての悪霊を制する力と権威、また、病気を癒す力と権威を与えられました。

 そして、神の国を宣べ伝えるために、また、病気を治すために遣わされました。神の国は、神の国の相続を表していて、それについて伝えたのです。イエス様は、ご自分がキリストであることは、まだ弟子たちには語らせませんでした。ですから、弟子たちは、神に立ち返って、正しい歩みをするように宣べ伝えたのです。

9:3 「旅には何も持って行かないようにしなさい。杖も袋もパンも金もです。また下着も、それぞれ二枚持ってはいけません。

 弟子たちには、旅には何も持って行かないように言われました。下着も、着ているものだけです。彼らは、出かけて半日も経てば、自分の置かれた状況がよく分かります。まず、食べる物がないのです。夜になって、宿屋に泊まることもできません。一日歩いて、神の国を伝え、病人を癒して汗だくになるか、寒いにしても手足は汚れてきます。彼らは、神様に頼りながら生きることになります。実際に手を差し伸べてくれるのは、人ですが、神様がそうさせるのでなければ、助けは得られないのです。

9:4 どの家に入っても、そこにとどまり、そこから出かけなさい。

 そして、どの家に入ってもそこに留まり、そこから出かけます。その家の人に世話になるのです。それでも、神様に頼って生きることになります。

 彼らは、自分が養われるという確たる見通しのない旅に出るのです。日々、神に頼る生活なのです。常に信仰によって歩むのです。また、彼らが与えられた権威を用いるときにも信仰が要ります。このように、弟子たちは、全てのことを信仰によってなすという訓練を受けたのです。信仰によって祝福を頂くという神の国のことを宣べ伝えるならば、それを伝えるる人自身が信仰によって歩まなければならないのです。彼らを受け入れた人々が、神を愛し、弟子たちを愛して彼らの世話を喜んでするのです。

 今日でも、御言葉を宣べ伝える者は、信仰によって歩んでいなければなりません。神を信じ、イエス・キリストを信じることで、義とされている者でなければなりません。それだけでなく、御国で報いを受けることを宣べ伝えるのであれば、信仰によって、御霊によって歩んでいなければなりません。御霊によって歩むことを信じない人が、信仰によって、御霊によりキリストと同じ者に変えられることを宣べ伝えることはできません。

9:5 人々があなたがたを受け入れないなら、その町を出て行くときに、彼らに対する証言として、足のちりを払い落としなさい。」

 しかし、弟子たちを受け入れないとき、足のちりを払い落とように言われましたが、そうするのは、弟子たちを受け入れない人々に対する証言のためです。彼らは、自分たちを受け入れませんでしたということを証しするのです。足のちりを払い落とすのは、彼らからは、何も受けていないことの証しです。足のちりさえも、彼らから受けていないことを行為で示すことであるのです。それは、彼らが全く受け入れなかったことを証しするものです。

9:6 十二人は出て行って、村から村へと巡りながら、いたるところで福音を宣べ伝え、癒やしを行った。

 弟子たちは、イエス様の言葉に従い、信仰によって村から村へと巡ったのです。

9:7 さて、領主ヘロデはこのすべての出来事を聞いて、ひどく当惑していた。ある人たちは、「ヨハネが死人の中からよみがえったのだ」と言い、

9:8 別の人たちは、「エリヤが現れたのだ」と言い、さらに別の人たちは、「昔の預言者の一人が生き返ったのだ」と言っていたからである。

 ヘロデが当惑したのは、人々が噂する話の中に、自分が殺したヨハネがよみがえったとするものがあったからです。

9:9 ヘロデは言った。「ヨハネは私が首をはねた。このようなうわさがあるこの人は、いったいだれなのだろうか。」ヘロデはイエスに会ってみたいと思った。

 ヘロデは、ヨハネの首を刎ねたのです。イエス様が誰であるのか知りたいと思いました。しかし、ヘロでは、悔い改めることはないのです。

9:10 さて、使徒たちは帰って来て、自分たちがしたことをすべて報告した。それからイエスは彼らを連れて、ベツサイダという町へひそかに退かれた。

9:11 ところが、それを知った群衆がイエスの後について来た。イエスは彼らを喜んで迎え、神の国のことを話し、また、癒やしを必要とする人たちを治された。

 イエス様は、ベツサイダに密かに退かれました。しかし、群衆は、それを知ってついて来ました。イエス様は、喜んで迎えました。彼らがイエス様を求めていたからです。それで、神の国のことを話しました。彼らが、神の御心に適って歩み、永遠の祝福を受け継ぐためです。また、癒しを必要とする人を癒されました。それは、愛による働きであり、イエス様がキリストであることの証明です。

9:12 日が傾き始めたので、十二人はみもとに来て言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、彼らは周りの村や里に行き、宿をとり、何か食べることができるでしょう。私たちは、このような寂しいところにいるのですから。」

 弟子たちは、その場所が寂しい場所であり、彼らの食事と宿のために解散させることを提案しました。

9:13 すると、イエスは彼らに言われた。「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。」彼らは言った。「私たちには五つのパンと二匹の魚しかありません。私たちが出かけて行って、この民全員のために食べ物を買うのでしょうか。」

 イエス様は、弟子たちに、その人たちのために食べるものをあげるように言われました。弟子たちは、五つのパンと二匹の魚しかないと答えました。彼ら全員のために食べ物を買うのでしょかと問うています。

 イエス様は、彼らの信仰の成長のために訓練しておられます。彼らにとって不可能と見えることも、信仰によって実現することを知らせるためです。既に、彼らは悪霊を追い出し、病気を癒す権威を与えられ、村々で実践して来たのです。生活の全てについても、神を信じて歩んできたのです。そのような経験をしていながら、この時は、全く信仰が働かないのです。主を目の前にして、主を信じないのです。

9:14 というのは、男だけでおよそ五千人もいたからである。しかし、イエスは弟子たちに言われた。「人々を、五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい。」

 イエス様は、信仰がない弟子たちに無理やり信じるようにはされません。信じないのであれば、彼らの信仰による結果を見ることはないのです。しかし、イエス様は、神様の御心の実現として、ご自分から業をなさいます。

9:15 弟子たちはそのとおりにして、全員を座らせた。

 弟子たちは、主の言われる通りにしました。

9:16 そこでイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げ、それらのゆえに神をほめたたえてそれを裂き、群衆に配るように弟子たちにお与えになった。

 イエス様は、パンと魚をとり、天を見上げました。祈られたのです。全ての業は父の業です。いつでも祈られて、父が業をなすことに委ねられました。

 そして、人々を祝福しました。群衆と弟子たちです。今、主を通してなされる神の業を見るのです。主がキリストであり、真のパンであることを証しするのです。彼らがそれを知り、信じるならば、その祝福は、見る人全てに及ぶのです。そして、それらを裂き、群衆に配るように弟子たちにお与えになりました。

・「それらのゆえに神をほめたたえ」→「それら」は、対格。褒め称える対象は、神ではない。その場合、単数になる。パンと魚を褒め称えたり祝福することはない。それで、対象は、人々になる。

9:17 人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを集めると、十二かごあった。

 彼らは、食べて満腹し、余りが十二のかごになりました。

9:18 さて、イエスが一人で祈っておられたとき、弟子たちも一緒にいた。イエスは彼らにお尋ねになった。「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか。」

 主は、祈りの後で、弟子たちに尋ねられました。このことのために祈っておられたのです。

9:19 彼らは答えた。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人たち、昔の預言者の一人が生き返ったのだと言う人たちもいます。」

 群衆の意見は、いくつかあり、バプテスマのヨハネだという人、エリヤだという人、昔の預言者が生き返ったという人がいました。彼らは、一度死んだ人です。ヘロデが言ったように、死んで生き返ったので、あんな力があるのだと考える人がいたのです。

9:20 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えた。「神のキリストです。」

 イエス様は、弟子たちにあなた方は、なんと言うかと問われました。ペテロは、神のキリストですと答えました。

 イエス様がこのような答えを求められたのは、信仰は、一人ひとりのものであるからです。人々が何と言おうとも、ペテロのように、この方が神のキリストであると信じることが求められています。

9:21 するとイエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じられた。

 イエス様は、このことを誰にも話さないように言われました。それは、それをすることで悪い結果をもたらすからです。

・「命じられた」→何かがうまくいかないことを警告する。

9:22 そして、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない、と語られた。

 それは、弟子たちがイエス様のことを正しく認識していないからです。彼らは、イエス様をキリストと信じましたが、それは、この地上において支配を確立する方としてでした。彼らには、正しい知識がありませんでした。この時、イエス様のことを伝えることはふさわしくなかったのです。

 今日でも、イエス様を正しく知っていないならば、イエス様を正しく伝えることはできないのです。さらに言うならば、御言葉を正しく理解しないままに、御言葉を伝えることはできないのです。

 イエス様は、ご自分について、民の指導者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならないことを示されました。弟子たちの認識とは違うのです。

9:23 イエスは皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。

 その上でイエス様が話されたことは、この世の誉のために行動しないことです。弟子たちが求めていたことは、自分の栄誉です。しかし、イエス様についていく者は、自分を捨てなければなりません。自分を捨てることの本質は、肉を捨てることです。そして、日々に十字架を負うのです。十字架は、肉に対して死に、この世に対して死ぬことを表しています。バプテスマの教えと同じで、キリストと共に死ぬことです。自分の十字架と言われたように、これは、自分事であるのです。他の人は関わりないことです。自分がいかに死ぬかということです。

 なお、自分の十字架は、自分の重荷という意味ではありません。主に従う上でのそれぞれの労苦ということではありません。主と共にくびきを負って、たましいが主と共に歩むことはあります。その場合、荷は軽いのです。しかし、十字架は、共に死ぬことを表しています。

9:24 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです。

 十字架が、自分の命を失うことであることがわかります。自分の命を救おうと思うことは、肉の欲望を満足させることを求めることです。しかし、それを殺し、主に従って歩むならば、いのちを救います。このいのちを救うことは、たましいが神の御心のうちを歩み、主と一つであるいのちを経験することであり、結ぶ実に対して永遠の資産としての報いを受けることです。

9:25 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の益があるでしょうか。

 それは、全世界を手に入れることと対比されています。それを手に入れても、自分自身を失い、損じることになるならば、何の益があるでしょうか。肉に従って生きて、この世の幸いを得たとしても、そのような歩みは、神の前には死んでおり、何の価値もありません。神の喜びを受けることはなく、実を結ばず、永遠の報いを受けることもありません。私たちが失われるのです。永遠の滅びに入ることはないにしても、報いはないのです。評価されるべき名は、何も残りません。自分の存在意義は無くなるのです。

9:26 だれでも、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子もまた、自分と父と聖なる御使いの栄光を帯びてやって来るとき、その人を恥じます。

 さらに、イエス様に従ううえで、イエス様とイエス様の言葉を恥じるようなことがあるとすれば、そのような人は、主の言葉を守ることをしないのです。イエス様が、御使いと共に栄光を帯びてくるときには、そのような人のことを恥じます。その人を喜び、栄誉を与えたいとは思わないのです。御言葉を教え、また、それを守る力を与え、天の報いという望みによって励ましたのに、それを与えているイエス様を恥とし、その言葉を恥としたのです。

9:27 まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、神の国を見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」

 最後にこの言葉を語られました。今まで話してこられたことは、この地上のものを求めるのではなく、神の国の報いを求めることです。そして、神の国を見るためには、弟子たちは、肉体の死を味わうことを話されたのです。御国の報いが与えられるのは、弟子たちに関しては、彼らの死後であることを示されたのです。

 ただし、死を味わうことなく、神の国を「見る」ことができる者がいることも示されました。そのことは、次節以降の記事に関係しています。そこでは、イエス様が栄光の姿をとられます。そのように、神の国では、イエス様が栄光を帯びられるのです。その御国に入り、報いを受けるのです。ただし、「見る」言われたように、報いを相続するまでには至りません。さわりを見るだけです。

9:28 これらのことを教えてから八日ほどして、イエスはペテロとヨハネとヤコブを連れて、祈るために山に登られた。

9:29 祈っておられると、その御顔の様子が変わり、その衣は白く光り輝いた。

 イエス様が山で祈っておられると、御顔の様子が変わり、その衣が白く光り輝きました。

9:30 そして、見よ、二人の人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤで、

9:31 栄光のうちに現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について、話していたのであった。

 モーセとエリヤが現れました。彼らは、栄光のうちに現れたのです。彼らは、栄光を受けていたのです。そのように、弟子たちも、栄光を受けて、報いを相続することを示されたのです。

 しかし、彼らの関心事は、イエス様がエルサレムで遂げようとしておられる最後についてでした。そのことについて、イエス様が弟子たちに話された時に、弟子たちには理解できないことであり、彼らは理解しようともしませんでした。聞き流していたのです。しかし、イエス様の最も偉大な御業です。モーセは、幕屋と多くの捧げ物について記しました。彼はイエス様の十字架の御業について預言したのです。

9:32 ペテロと仲間たちは眠くてたまらなかったが、はっきり目が覚めると、イエスの栄光と、イエスと一緒に立っている二人の人が見えた。

 彼らは、眠くてたまりませんでした。この三人は、肝心な時に眠るのです。これ以上ないという肝心な時に、寝過ごしてしまうのです。彼らの関心が薄いのです。目の前の出来事が大事なこととは思わないからです。イエス様に対する関心が薄いのです。自分のこと、また体のことしか考えていません。

9:33 この二人がイエスと別れようとしたとき、ペテロがイエスに言った。「先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。幕屋を三つ造りましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために。」ペテロは自分の言っていることが分かっていなかった。

 ペテロは、自分の経験が素晴らしいので、幕屋を造りたいと申し出ました。イエス様は、彼らにこの地上のことに関心を持つのではなく、御国を求めるように教え、また、その栄光も見せて、御国に望みを抱くように教えているのに、その最中に、彼が示した態度は、この地上で幸いを味わうことです。ペテロは、素晴らしい今の状態に留まりたいと思ったのです。ペテロに示そうとしておられる教訓を理解しないです。

 また、イエス様が栄光を現されたのに、その方の偉大さについても理解しませんでした。モーセとエリヤの二人と同列に考えていたのです。

9:34 ペテロがこう言っているうちに、雲がわき起こって彼らをおおった。彼らが雲の中に入ると、弟子たちは恐ろしくなった。

9:35 すると雲の中から言う声がした。「これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け。」

 彼らは、雲に覆われました。それは、神様が臨在されたからです。雲の中の声は、イエス様がいかに偉大な方であるかを証しするものでした。神がご自分が選んだ子であると言われ、彼の言うことを聞けと言われました。ペテロは、イエス様の言葉をあまりにも軽く考えていました。自分の考えが第一であり、それにそぐわないイエス様の言葉は、無視していました。それで、十字架を理解できないのです。

・「子」→息子の意味。(生まれまたは養子による)子、(比喩的に)父と同じ性質を共有する者。

9:36 この声がしたとき、そこに見えたのはイエスだけであった。弟子たちは沈黙を守り、当時は自分たちの見たことをいっさい、だれにも話さなかった。

 そこに見えたのは、イエス様だけでした。神様がご自分が選んだ子と言われたのは、イエス様のことです。

 彼らは、当時は自分たちの見たことを一切誰にも話しませんでした。後に、べテロは、このことを手紙に記します。しかし、この時、栄光の姿を持たれたイエス様を神であると理解したわけではないのです。

9:37 次の日、一行が山から下りて来ると、大勢の群衆がイエスを迎えた。

9:38 すると見よ、群衆の中から、一人の人が叫んで言った。「先生、お願いします。息子を見てやってください。私の一人息子です。

9:39 ご覧ください。霊がこの子に取りつくと、突然叫びます。そして、引きつけを起こさせて泡を吹かせ、打ちのめして、なかなか離れようとしません。

9:40 あなたのお弟子たちに、霊を追い出してくださいとお願いしたのですが、できませんでした。」

 一行が山から下りてくると、一人の人が息子の癒しを願い出ました。彼の一人息子の症状からは、癲癇が疑われます。父親は、霊が取り憑いていると考えていました。彼は、すでに弟子たちにお願いしたのですが、弟子たちにはできませんでした。

9:41 イエスは答えられた。「ああ、不信仰な曲がった時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子をここに連れて来なさい。」

 イエス様は、その父親の言葉を聞いて、今の時代が不信仰な曲がった時代であると嘆かれました。これは、イエス様と共にいる「あなた方」のことです。弟子たちと、この父親たちのことです。イエス様は、いつまで彼らと共にいて我慢しなけければならないのでしょうと、彼らの不信仰や曲がっていることを嘆かれました。父親は、イエス様に助けを求めましたが、信じていないのです。弟子たちには、癒す信仰がありませんでした。

9:42 その子が来る途中でも、悪霊は彼を倒して引きつけを起こさせた。しかし、イエスは汚れた霊を叱り、その子を癒やして父親に渡された。

 その子は、悪霊の支配下にありました。悪霊によって引き付けを起こしました。イエス様は、その汚れた霊を叱り、その子を癒し、父親に返されました。

9:43 人々はみな、神の偉大さに驚嘆した。イエスがなさったすべてのことに人々がみな驚いていると、イエスは弟子たちにこう言われた。

 人々は、イエス様がなさったことを見て、驚嘆しました。それは、ちょうど引き付けが起きた時、癒されたので、イエス様の業の偉大さが明らかになりました。

 人々が驚いている時にイエス様は、弟子たちに言われました。

9:44 「あなたがたは、これらのことばを自分の耳に入れておきなさい。人の子は、人々の手に渡されようとしています。」

 イエス様が人々の手に渡されようとしていることです。弟子たちは、イエス様の偉大さを見たし、群衆もその偉大さに驚きました。弟子たちの思いの中にあるイエス様が王として立たれることが間近いと思わせる出来事でした。イエス様は、弟子たちが考えているようにはならないことを示されたのです。

9:45 しかし、弟子たちには、このことばが理解できなかった。彼らには分からないように、彼らから隠されていたのであった。彼らは、このことばについてイエスに尋ねるのを恐れていた。

 弟子たちには、イエス様の言葉は理解できませんでした。それは、自分たちの考えと食い違っていたからです。弟子たちは、イエス様に直接語られたにもかかわらず、それを理解しませんでした。尋ねるのを恐れました。自分たちの持つ考えが間違っていることが明確に指摘されることを恐れたのです。

 弟子たちには分らないように隠されていたとも記されています。彼らが頑ななので、それをそのままにされました。

 弟子たちの不理解は彼らの考えが間違っていたからです。イエス様の言葉が正しいという前提に立って物事を考えませんでした。彼らの考えは逆で、自分たちの考えが正しいという前提に立っています。ですから、それと違う言葉は、理解できないし、心に入ってこないのです。

 今日、聖書の言葉を読む私たちも、聖書の言葉の意味を正しく受け入れることを前提に聖書を読まないと、正しい知識が入らないのです。多くの場合、自分の持っている教えが正しいと考えていますから、自分の考えに整合しない記述があった場合、理解できないし、理解しようとしません。

9:46 さて、弟子たちの間で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。

 弟子たちの間では、誰が一番偉いかという議論が持ち上がりました。彼らの求めていたことは、自分を高くすることです。兄弟を愛する愛を現すことがないのです。それは、隣人を自分と同じように愛しなさいという律法にも適わないものです。

9:47 しかし、イエスは彼らの心にある考えを知り、一人の子どもの手を取って、自分のそばに立たせ、

9:48 彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。あなたがた皆の中で一番小さい者が、一番偉いのです。」

 イエス様は、弟子たちを教えるために一人の子供の手をとって、自分のそばに立たせました。このような子供を、イエス様の名のゆえに受け入れる人は、イエス様を受け入れることになることを示されました。イエス様の名のゆえにとは、イエス様を信じてイエス様のものとされていることです。そして、イエス様を受け入れる者は、イエス様を遣わされた方即ち父である神を受け入れることです。非常に尊いことであるのです。逆に言えば、小さい子を受け入れないことは、主を受け入れないことになります。さらには、父である神を受け入れないことになります。

 そして、あなた方皆の中で一番小さい者が、一番偉いことを示されました。人は、そのような人のことを一番偉いとは心底からは思いません。そのような教えがあることはわかっていても、心が伴わないのです。しかし、一番小さい者は、人間的には、何も持たない人です。弟子たちが論議していたように、他の人に勝るものを持っていて、偉いとされるものを何も持たないのです。それゆえ、一番偉いのです。何も誇りません。そのような人が偉いのです。

 人の間で自分を偉いものとする誇りは、信者の中にもしばしば見られるものです。コリントの教会では、そのために不一致が生じました。そのような信者よりも、小さな子の方が偉いのです。そのような一人ひとりをキリストの名のゆえに、受け入れるべきなのです。

9:49 さて、ヨハネが言った。「先生。あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったからです。」

 ヨハネは、イエス様の名によって悪霊を追い出している人を見ましたが、やめさせようとしました。その理由は、その人が彼について来なかったからです。

 ヨハネは、自分の正統性を強く主張する人です。正しさを求めることは良いことですが、そのための他の人を排除する人です。不寛容でした。

9:50 しかし、イエスは彼に言われた。「やめさせてはいけません。あなたがたに反対しない人は、あなたがたの味方です。」

 イエス様は、やめさせてはいけないと言われました。反対しているのでないなら、味方であるからです。行動を共にしなという理由だけで、その良い働きをやめさせる必要はないのです。

9:51 さて、天に上げられる日が近づいて来たころのことであった。イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれた。

9:52 そして、ご自分の前に使いを送り出された。彼らは行ってサマリア人の村に入り、イエスのために備えをした。

9:53 しかし、イエスが御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリア人はイエスを受け入れなかった。

9:54 弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。「主よ。私たちが天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」

 イエス様は、天にあげられる日が近づいており、顔をエルサレムにまっすぐ向けて進んでおられました。サマリヤ人の村に泊まるために弟子たちを先に使いに出し、備えをさせました。しかし、その村のサマリヤ人は、イエス様を受け入れませんでした。御顔をエルサレムに向けて進んでおられて、サマリヤ人を見向きもしなかったからです。もはや、ここで。時を過ごすことができなかったのです。

 ヤコブとヨハネは、それを見て、天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうかと提案しました。

9:55 しかし、イエスは振り向いて二人を叱られた。

 イエス様は、二人を叱られました。してはならないことをしようとしていたのです。たとい今受け入れないにしても、神の時があります。また、受け入れないというだけで彼らを焼き滅ぼすようなことは、人殺しです。神の権威を用いた殺人です。さらには、主を受け入れないならば滅ぼされるようなことが人々に知レ渡れば、多くの人の心は離れるでしょう。信じるにしても、恐怖から信じることになります。

 彼らは、主を受け入れないことに対して裁こうとしまた。自分の正統性を強く考える人は、人に対して攻撃的になります。正しさを求めることは良いですが、それが良いものを壊すことになってはなりません。

 彼らは、主の栄光ということを何も考えていません。自分を捨てて愛を現すという主の業とは、全く異なるものです。

9:56 そして一行は別の村に行った。

 彼らは、別の村へ行きました。

9:57 彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」

9:58 イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」

 ある人が、イエス様に、どこに行かれてもついて行きますと言いました。イエス様は、彼にイエス様の困難について告げました。イエス様には、狐や鳥のようには寝ぐらはなく、枕するところもないと言われました。この人の申し出は、力強いものですが、しかし、人は弱い者です。イエス様は、彼が経験するであろう困難についてよく考え、それでもついてくることを求められたのです。口先だけ、勇ましくても、すぐに躓いてしまいます。

9:59 イエスは別の人に、「わたしに従って来なさい」と言われた。しかし、その人は言った。「まず行って、父を葬ることをお許しください。」

9:60 イエスは彼に言われた。「死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」

 イエス様は、別の人には、イエス様の方から、私に従って来なさいと言われましたが、その人は、まず行って父を葬ることをお許しくださいと願いました。しかし、イエス様は、神を信じない彼らの面倒は、神を信じない人たちに任せるように言われ、その人には、神のために神の国を言い広めるように言われました。それは、より多くの命ある人たちを産むことです。神を信じない父の面倒に勢力を注ぐのであれば、神のために、人々に命をもたらす神の国を言い広めることが遥かに価値あることです。

 なお、この人の父が死んで葬ることを願ったのではありません。イエス様が言われたように、「死人たち」と言われ、この人の父という個人のことを言ったのではないのです。神を信じない人たちのことを言っているのです。イスラエルは、神を信じる民ですが、信仰に歩んでいない人たちは、大勢いたのです。まして、メシヤを信じない人は大勢いました。彼らは、神の国を受け継ぐことのない者として死人なのです。

9:61 また、別の人が言った。「主よ、あなたに従います。ただ、まず自分の家の者たちに、別れを告げることをお許しください。」

9:62 すると、イエスは彼に言われた。「鋤に手をかけてからうしろを見る者はだれも、神の国にふさわしくありません。」

 また、別の人は、主に従いますと言いましたが、まず、自分の家族に別れを告げることを許してくださるように願いました。

 イエス様は、それが神の国にふさわしくないと言われました。主に従いますと告白したのであれば、すでに鋤に手を掛けたのです。もう後ろを見てはふさわしくないのです。別れを告げること自体にさほど意味はありませんが、彼の心は、家族に向いていました。主に従うのであれば、ひたすらそこに歩むことが求められています。

 神の国は、神の御心を行い御国で報いを受けは、それを永遠の資産として受け継ぐことを表しています。主に従い、御心を行う者に与えられます。それなのに、心がそこになく、自分の家の者に心を置いていては、豊かな報いを受けることができないからです。